
今年5月最後のパリの日曜日は、ちょっとひんやりした爽やかな朝です。
気候がいいのでエネルギーが充実、最近は7時半にはパッチリと起きてしまいます。
今朝はとっととシャワーを浴びて洗濯・掃除をささっとすませて、たったと散歩がてら早めに朝市に行くことにしました。朝市とはいっても、パリの人はお寝坊さんですから、賑わうのは11時くらいなんです。朝早く行くと、結構イギリス人が買い物に来ているのが目に付きました。何より、よい品物がたくさんありました。おまけに、最近、ひいきの八百屋さんではさくらんぼを「おやつ」といってひとつかみプレゼントしてくれました。ついてます!
パリはもう薔薇の季節。
今日の写真はVAL DE GRACEという教会のドームを背景にした薔薇の花達。なんとなくご覧になれるでしょう?薔薇の甘いけどしつこくない、柔らかな気品のある香りが漂っていました。
うふふ、朝の贅沢ですね。(笑)
最近、時間についてぼんやりと考えていて、ある意味、諭されたことがあります。
昔、「今を生きる」という映画がありましたが、皮肉にも、頭ではその大切さがわかっているのですが、あらためて考えると、なんだか難しいことになってしまう。
過去の「事実」というものは、人の記憶とか記録したもの、証言などを読んだり、見たり、聞いたりして、それを頭の中で再生・解釈したもので、今こうして鳥が鳴いているとか、風がつめたいとか、そういう「現実」というのとはまた別のことのようです。ただ、こういう「事実を踏まえて」という他人と共通のなんていうかしら、土台として機能するのが「事実」なんで、客観的というか誰にでも理解できる。
反面、「感動」するということは理屈を超えたところ、「真実」からくるわけで、それこそ魂をゆすぶられるわけです・・・これは事実が頭や心にのみ作用するのに対して、体の細胞にもダイレクトに作用しちゃう。ドキュメンタリーをみて感動する場合、これが魂の「何か」に触れるからなんですでね。だから心に振動する。
制限ある中で生きる一般市民としては、事実を踏まえた状況判断(常識的な行動基準)によって生きることが「安全」とか「賢明」とかされるわけです・・・・結果というか未来が予測しやすいから。
一方、自分の「真実」や「本当のこと」にしたがって生きるということは「危険」とされることが多いわけです。自分でリスク管理しなくてはならないから?最近は、何が安全か、時間の問題のようなことが一杯起きていますけどね。既存半分、独自半分というのがリスク管理としてはいいようですが、これも情勢によって配分が違ってくる。
物質的な老後の備え云々などというより、これからは運がいいことと健康で判断力や強い心、エネルギーがあることが一番、大切に思えますけどね。予測されるリスクに振り回された生き方より、リスクを管理しながら自分を鍛錬して生きるほうが「安心」するんではと私は思いますけど。
しかし、世の中、リスクにおびえて(?)か嫌がって、その回避に終始して死んでいく人が多いようです。でも、何のために生きているかといったら、どっちが割に合わないかということにもなるんですけどね・・・・。どうも、日本とフランスって全然、似てないんだけど、ここんところは似てるとおもうことが多い。もしかすると、フランスの自由のイメージと違うと思っている方も多いかもしれませんけど、ね。
にしても、時間の考え方をちょっといじっただけで、自分の「世界観」というものが簡単にひっくり返ってしまう。潔くかつ、勿体ないという思いをもって生きろということでしょうか・・・。
バランス、やっぱり人生というのは「
妙」なわけです。
よくいう、「未来」というのは、文字通り「まだ」なわけで、これも想像、想定といってもいいですけど、あくまで頭の中でおきていること。だから、未来のことばかり「考えるの」は、ある意味、過去に起きたとされることを考えるよりも危険ともいえるわけですね・・・・妄想ということになってしまうから。
希望をもつのは大切なのですが、妄想をもってしまってはいけない。これって結構、微妙な問題かもしれません。やっぱり、健全で精緻な感覚をもって、心に「妙」がないと、ロボットか紙芝居のような生活になってしまう。
ですから、予測をつけるということは大切ですが、「予想」ということはある意味、無意味ということになります。(予想を立てるプロセス自体に技というかある意味、「知の美」がでてくるのでしょうけれどね・・・)予測って謙虚なイメージがありますが、予想ってもっと図図しいかんじがあるかも。(笑)
株とか為替とか、投機をしている人は納得されるかもしれません。「絶対あたる」という予想はないですし、「絶対儲かる」という話はないですし、あってもインチキか、そういうこともあったというだけの話か、それを聞いた時点ではもう無効というかんじで、予想は幻くらいに思っておいたほうがいいみたいですね。(笑)
ある意味、未来は「幻」以外のなにものでもない。
逆に言うと、未来という概念の延長線上に「今」がある。
あれ〜、まっさかさまになっちゃった。
ただ、日常の時間感覚の話で判っていたつもりが実際、実行できていないことの例として、「
今は未来のためにあるのではない」ということなんです。未来のためにと今を生きると、今を生きていないということなわけですね。
因果応報とか因果律といいますが、過去・現在・未来という左から右への矢印状に時は流れると想定したものが従来の「常識」であって、循環しているというか螺旋状なっていると想定しているのだという説もある。このほうが納得いくことが多いのが不思議・・・・ふむ。
そういえば、2月ほどまえ、「マトリックス」という映画を何度もみていました(おそまきながら)。
非常に面白いのだけれど、3回みたら飽きがきてしまった・・・プログラミングの基礎知識(本当に基礎なんでしょうけど)をちょっと勉強したら、よくストーリーとか登場人物がわかるようになりましたが、結局、大元のところはこの時間の話みたいなところにいきつくのですね。
これも個人的には、後でわかったシンクロ、全部、見るもの聞くもの繋がってくる。
。
子供の頃、日本でよくみかけた床屋さんのグルグル回る看板を思い出します。
でもあのようにきっちりしていない螺旋状だから、完全な輪ではないわけで、なにかのはずみや具合によってぶれて、グルグルしているうちに輪としての形状も変わるし、下手すると逆行しちゃったりすることもあるかもしれない・・・・これがよくいわれる「時空のゆがみ」とかいうやつなんでしょうね。
そうやって考えると、ここ数年ですっかりおなじみになった言葉、「シンクロ」というのも説明つきやすくなったりして。別に、説明しなくてもいいことなんですけど。これはSFの世界の話ではもはやないですね。
そう、私達の勘違いの多くはこの「
全て説明しなくてはならない」と思い込んでいることなのかもしれません。「
納得しなくてはならない」確かに、今の世の中、「法律」とか「道理」というものがないと機能しないんですが、本当ぉ〜に昔、昔、そういうものではなくて、自ずと「自然の法則」というものを敬って人は説明しないで生きていたらしいんですわ。
たとえそうだからといって、理屈で説明したり、納得しなかったりしたら、生きていけません。というか、まだ危険です。少なくとも今のところ、私は嫌です。でも、感覚で変なことは大抵、わかりますよね。
とにかく、ここんところの読書とかで「
今を未来のためにあると思わない」ということをよく理解しておこうとおもうようになりました。
最近、片付けものをしていての気づいたのはいかに「執着をなくすことができるか?」というものでした。そして、使いもしないもの、入りもしないもの、好きでないものを、「いつか」「もしも」「あのときは」などという理由で持っておくことが非常に、私は嫌だなぁと思いました。
何より、管理の手間、スペース、費用なんかも気にしないでよいので合理的ですしね。
例えば、人のことを好きになる瞬間というのは、理屈ではないじゃないですか・・・・。
これも因縁とかいいだせば、いろんなことがあるらしいのですがね。
未来についての恐れや期待というより、「あ、好きだな」とか相手がただ光っちゃうとかそういう
かんじでしょう。
相手の外見が優れているから、お金持ちだから、地位があるから、素晴らしいから、誰かに似ているから、「あの人が欲しい!」というのは「好き」というのとは違うんです・・・過去のコンプレックスを未来で挽回してやろうとか、執着。結構、しつこいんですよね、こういう人達って・・・・。
嫌ですわねぇ・・・・・。
勿論、ホルモンに左右されて「のぼせて」好きになるのとも違う・・・動物磁石っていうんでしょうか・・・、それでもお互いに磨いて光っていければいいのでしょうけどね・・・飽きるんでしょうね、こういうパターンって。
ここらへんが、よくいう、その人の魂というか精神的というか霊的なレベルの差がでてくるところらしいですね。う〜ん、人生って深い。(笑)
単純明快であることと、やはり深くそしてなんともいえない「妙」な持ち味(妙というのは言葉に表せない繊細さというよな意味で使っています)をどうバランスさせるか、それぞれの人の色でいろんなあり方があるもんですけど、エネルギー的にも綺麗でありたいと思います。
なんかよくわかんないけど、こういう「
妙」な世界で遊ぶのもいいものですよ。
いつも、目的がはっきりしている、損得ばかりじゃ、色気(面白み)がない。
男性も女性も「ちょっとぬけてる」くらいが丁度いいのかもしれません。(笑)
常に頭を適度にゆるめて、常に細胞で感じとるような生き方ができたらいいのになぁ。
それじゃ、宇宙人ですね。(笑)
「今を生きる」とは、実は一言でいえる、人生の「妙」を味合うということなのかもしれません。私は今年から、雅楽にはまっています。
「妙」というものを味合うには最適です。
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